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インタビュー

2014-11-10 19:48 追加

新監督に聞く 堺 印東玄弥氏

堺ブレイザーズ 新監督に聞く

V1リーグ 男子

 

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堺ブレイザーズに今季から就任した印東玄弥氏にこれまでのキャリアと今季の目標などについてお話をうかがった。

-コーチのキャリアのスタートについて。

1993年に日本体育大学を休学して、北京体育大学に留学しました。将来バレーボールの指導に携わりたい気持ちがありました。

80年代以降、日本女子バレーが、中国に歯が立たなくなっていました。中国は、単にアジアだけではなく、81年ワールドカップでの優勝を皮切りに、82世界選手権、84年オリンピック、85年ワールドカップ、86世界選手権まで5冠を達成、キューバが台頭した以降も、89年ワールドカップで銅、90年世界選手権と、91年ワールドカップで銀メダル獲得と、世界の強豪国として君臨し続けました。どうして同じアジア人でありながら、これほど強いのか、ということをずっと不思議に思っていました。

また、中国バレーを知るために読んでいた『中国バレーボールの理論と実践』という本の著者である李安格、黄輔周両氏らが、偶然にも日本体育大学と姉妹校関係にあった北京体育大学の教授だったのです。両大学の間には交換留学制度がありました。中国バレーの礎を作った方に理論を教わりたいと考え、交換留学制度に応募しました。大学3年生の時です。何人かの候補者が動機や研究テーマを審査され、合格した1年後、4年生の夏に北京に渡りました。

当時、実業団リーグのソニー大崎へ学生コーチとしてお手伝いしていた時にお世話になった中国人の趙永強コーチとの出会いも中国バレーに対する関心を深めるきっかけにもなりました。ありがたいことに、文部省(現文部科学省)の国費留学の制度にも合格して、日本と中国の両方から奨学金を頂くことになり、経済的負担なく学べるという機会が巡ってきました。

私が中国にいた年に、郎平さん(現中国女子監督)を監督兼プレーヤーに据えたヤオハン世界選抜というチームが北京を拠点に活動していました。山田重雄さんがスーパーバイザーを務めておられ、中国で試合がある時には訪中して観戦されていました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA中国ナショナルチームが日本で試合をする時は日立で合宿していたり、袁偉民監督の息子さんが日立の選手に中国語を教えていたりしました。中国と日立は何かと縁があり、中国で学んだことを役立てられるのではないかという思いから、留学中に大学卒業後、日立ベルフィーユのコーチを志望していることを山田重雄さんにお手紙でお伝えしました。

話は良い方向に進んでいたのですが、94年のVリーグ発足時、主力9選手がプロチーム結成を前提として集団で退部届けを提出する騒動などが起き、チームの存続にも影響があるということから、日立へ行く話はなくなりました。

全日本女子が横田忠義監督、キャプテンが大林素子さんだった1994年の中国遠征に駆けつけたことがありました。当時の全日本は第27回日本リーグの優勝チーム日立と、準優勝ダイエーの選手を中心に構成されていました。マネージャー、コーチ、トレーナーも、両チームの方たちがつとめていました。

ダイエーの通訳兼コーチで、全日本のマネージャーをされていた花田さんから、ダイエーは若手有望選手を多く採用していて、来年度のコーチを探しているということをお聞きしました。前述の日立の話もまだ最終結果は出ていなかったのですが、セリンジャー監督に履歴書やバレーボールに関する考え方を手紙に書いて送ることを勧めていただきました。

山田さん、セリンジャーさんという世界的な監督に、何のキャリアも実績もない学生が、コーチとして使ってほしいという手紙を書くという行動、今考えると少しその大胆さに怖くなります。日立の騒動で、選択肢は自ずとダイエーになったのですが、話を進めている中、年が明けて阪神淡路大震災が起きました。

当時は携帯電話やインターネットも普及していません。チームは1ヶ月神戸に帰れず、全国を移動しながらリーグを戦っていましたので、連絡もつかない状態になりました。やっと連絡がついたときには、既に3月になっていました。大学を卒業した私は、3月31日に神戸へ向かいました。

震災の被害でめちゃくちゃになっていた三宮駅周辺の景色は今でも忘れられません。この神戸から私のコーチ人生が始まりました。

―そこからなのですね。

当時、実業団リーグのチームのソニー大崎に、中国人選手とコーチがいて、あるきっかけで中国に留学することになって、中国に来た全日本スタッフの花田さんと出会ったことでダイエーとセリンジャーさんとの縁が生まれました。そこからキャリアが始まり現在に至ります。

ダイエーには3月31日に行ったと言いましたが、5月の黒鷲が終わるまでは試用期間でした。それで認めていただいていなければ、今もなかったかもしれません。正式採用となったのは同年5月からでした。

―今セリンジャーさんの話がありましたが、かいつまんでセリンジャーさんの元で得られたものを教えて頂ければ。

勝負の厳しさ。高校、大学でも体罰という名の暴力や上下関係の厳しさは経験しましたが、そういうものとは違う厳しさ。厳しさの質が違います。

―ロジカルな?

思いつきや、上辺の知識、言い訳は通用しません。殴られて何も考えずに、従っていれば別の意味では楽かもしれません。自分の頭で物事をきちんと筋道立てて説明、意見を述べる。原因を究明し、結果を求める習慣がないと、とても辛くなってしまいます。

でも、理解出来ると、なるほどこういうことなのか、と目の前が開けてきます。彼は24時間ずっとバレーボールのことを考えているといっても過言ではありませんでした。私は、大学卒業後すぐに、あれほどの経験、知識、バレーボールに賭ける情熱を持った、セリンジャーさんのもとでコーチングを学べたのは幸運でした。

高校を出たばかりの女子選手に対してでも、基準を世界レベルに置いていました。セットが低ければ、オランダ男子、金メダリストの205cmのセッター、ピーター・ブランジェは、このようなテクニックでどうプレーしていたかとか、アメリカのリタ・クロケットは身長175cmで1m跳んでいて、彼女たちはジャンプ力をつけるためにどんなトレーニングをしたか、などオリンピックメダル級選手が比較対象となり、名前がバンバン出てくる。

日本人だから劣るとは言わずに、人間は鍛えれば必ず強くなり、高いレベルに到達できるということを熱心に説いていました。そういうのが当たり前の文化の中に身を置けたのです。限界を作らせず、「私になんてできるはずがない」とか、「無理」とかではなく、「私にならできる」と本気にさせるのが凄かったです。

話が遡りますが、81年のワールドカップで、北海道でアメリカ女子監督時代のセリンジャーさんを見ているのです。当時10歳でした。セッターはデビー・グリーン。

ダイエーから、日立に移籍する前に、アメリカのロングビーチ大学でコーチをさせてもらいましたが、17年の時を経て、同大学でコーチを務めていたグリーンと一緒にバレーボールをしました。郎平さんも81年ワールドカップで鮮烈な活躍をし、アメリカと激闘を繰り広げていました。彼女が中国女子監督になってから、中国チームの練習のお手伝いもしました。何十年という時を経ても、縁でつながっていたことの凄さを身にしみて感じています。

―ダイエーのあとの経歴について

ダイエーオレンジアタッカーズから日立佐和リヴァーレ(現日立リヴァーレ)に移籍しました。その後、アメリカのプロチーム創設のためにシカゴへ渡りました。ここでもセリンジャーさんのアシスタントコーチを務めることになりましたが、これは偶然が重なりました。

日立へ移籍希望したのは、中国に留学してバレーボール理論を学び、中国語を習得したので、それを役立ててバレーに携わりたいという積年の思いがあったからです。その1999年以降、女子は外国人選手の出場制限規則が出来たので、動くならその年しかありませんでした。日立で、アトランタオリンピック銀メダリストの藩文莉という選手の獲得に携わりました。ダイエーのコーチ4人の中で、最年少、経験も無かった私でしたが、3年目に第4回Vリーグで優勝できたことで、セリンジャーさんやチームに少しは恩返しが出来たと思い、今度は違うチームでも教わったこと生かしてみたいと考えて、コーチ兼通訳として日立リヴァーレへ行きました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA―ダイエーから日立?

はい。仕事をしながらVリーグを戦う環境がどのようなものかとても興味がありました。

大卒の選手が多い、平均身長もリーグで最も低いなど、体育館の設備などを含めて、ダイエーとは大きく違いました。選手は、ひたむきで真面目で夜遅くまで一生懸命練習をしていました。

日立では、移籍した1998年の東部サマーリーグ、サマーリーグ決勝、関東実業団大会、国体関東予選など、出場した大会で全部初優勝しました。関東代表として初出場した神奈川国体では準優勝。サマーリーグの決勝では、ダイエーに勝って優勝しました。

初昇格初参戦の第5回Vリーグでは、10チーム中8位でした。

忘れられないのは、リーグの最終戦でダイエーと対戦した試合です。日立は、単独8位で、勝っても4強はなく、負けても入れ替え戦もない状態でした。ダイエーは順当に日立を倒せば4強という中で、フルセット勝ちをしたのです。昨年優勝したチームが5位に落ちて、決勝ラウンドに進めなかったのです。私自身がその勝利を味わった翌シーズンだったので、複雑な思いがこみあげてきました。

その後、日立から、アメリカのプロチームへ行くことになりました。ダイエーに、よくアメリカの大学やクラブチームがよく訪れていました。その中のチームの監督が設立に関わることになり、私のことを覚えていてくれて、声がかかったのです。監督はキューバのへオルへさんになると聞いていまいした。90年代のキューバは中国にとって代わって黄金時代を築いていましたので、その指導法を学びたいと思いました。ところが、キューバとアメリカの国交の関係で、キューバ人がプロチームの監督は難しいということでだめになりました。

次にアメリカのグリーンカードがある郎平さんに要請したとのことですが、中国協会からの反対でこちらもダメになってしまいました。1999年の黒鷲を最後に勇退することになったセリンジャーさんが監督就任に決定したのは、私が既にコーチとしての契約を果たしていたあとでした。再び同じチームで活動する縁があったとは、不思議なものです。

―それはアメリカで?

はい、アメリカです。1999年~2000年。アメリカは4大プロスポーツが盛んですが、女性のプロスポーツが求められていました。300以上もある大学のバレーボールチームの選手には受け皿がなく、卒業後は、ヨーロッパリーグなどに単独で行くしか無かった。まずシカゴにチームを作って、中西部からチーム数を拡大していく為に、核になる選手たちを鍛えることになりました。1年目の目標はESPNが全米で放送することに決定したミレニアム・カップで勝ち、それを全米中にアピールすることでした。

招待されたのは日本代表としてセリンジャーさんの教え子が在籍する東北パイオニア(現パイオニア)とポーランド代表です。アメリカは、プロチームを国旗にちなんでスターチームとストライプチームの2つに分け、戦いました。勝ったチームが全米にお目見えするのです。そこで、優勝することができました。

パイオニアは、齋藤真由美さんや椿本真恵さんが加入しており、当時のV1リーグで優勝して、入れ替え戦で日立佐和に勝ってVリーグ昇格を決めていました。

Vリーグで戦っていくために経験のあるセリンジャー監督を招聘したいという要望がパイオニア側からあったわけですが、セリンジャーさんの条件として、アシスタントコーチに私を連れて行きたいということがありました。私は、子供がアメリカで生まれたこともあり、永住する覚悟で、もっと長くアメリカでバレーをしたいと考えていました。でも、どうしても、と言って下さることを意気に感じて、2000年に日本に帰ることを決めました。

―優勝も経験されて。

パイオニアは、リーグ以外にも国体に力を入れていました。国体は、私が若手選手を率いて監督として3度出場しました。2001年新世紀国体(宮城)で山形県勢として初優勝。3年目以下の選手のみでの参加でしたが、山形の皆さんや、会社の方も大変喜んでくれました。次の高知国体で3位、更に翌年の静岡国体で準優勝でした。黒鷲旗は2002年に初優勝。4年目で迎えた第10回Vリーグ(2004-2005シーズン)で初優勝しました。ダイエー、日立、パイオニアと、3つのVリーグチームで選手やスタッフにも恵まれ日本一になる経験をしました。

―その頃のパイオニアはすごく強かったですよね。

当時のパイオニアの選手に聞いていただいても同じことを言うと思うのですが、単に良い選手を集めたから勝ったというわけではないのです。優れた能力に加えて、本当に凄まじい練習、トレーニングをしていたので、その努力の結果、優勝したのだと思います。

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